私は巨乳を知らない
私は巨乳を知らない。
画像や映像、書籍など様々なメディアを通してそれを観たことはある。
人の話からそれがどのようなものかを聞いたこともある。
しかし実際に見たことがないのだ。
触れたことがないのだ。
実際に見たことがない、触れたこともないもの。
本当に巨乳は存在するのだろうか。
私はそれの存在を、インチで測る画面からしか確認したことがないのだ。
動き、揉まれるそれを、縮尺された電気信号の情報でしか知らないのだ。
いわばそれは雪男イエティであり、湖の巨大生物ネッシーでもあり、いつか男たちが血眼で探したツチノコでもあるのだ。
それら未確認生物の存在を疑い、情報でしか知りえない巨乳の存在を信じるのは不自然ではないだろうか。
目に見えぬ霊の存在を否定し、見たことがない巨乳の存在を肯定することは許されるのだろうか。
私の中の巨乳は、あくまで知識と情報の中で出来上がった妄想の産物に過ぎない。
触れればその形はどのように動き、重力に無抵抗なそれは形をどのように変えるのか。
実際のそれが熱を帯びているのかも、未確認のうえでは定かではないのである。
もう一度問う。
本当に巨乳は存在するのだろうか。
そもそも巨乳とはなんなのか。
女性の乳房が大きいことを指す言葉であるという認識はおそらく間違ったものではないだろう。
では「大きい」とはどれほどのものなのか。
大きさとは相対的なものなのだ。
そこに共通の物差しはなく、人の主観によってしか決まらないものなのだ。
ならば、平均より大きければそれは巨乳なのか。
いや、違う。
平均より少し大きい程度では、「一般的」に呼ばれる巨乳ではないだろう。
では「一般的」に呼ばれる巨乳はどの大きさなのか。
仮にそれをスリーサイズで説明されたとしても私にはわからない。
結局のところそれを想像する力を、情報を、物差しを持たないのだ。
そして、仮にそれが私が想像していた巨乳ではなかったならば。
私の思い描く巨乳は超大型巨乳になる。
もはやこれは性的欲求で満たされるものではない。
知的好奇心のようなものに支配された、行き場のない体の内からの圧力だ。
だが勘違いしないでほしい。
巨乳が、乳房の大きさがすべてではない。
人は話して、触れて初めてわかるものなのだ。
少なくとも私にとって乳房が大きいことは絶対条件ではない。
あくまで巨乳は
「Must」ではなく「Better」なのだ。